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フェルディナンド ポルシェの生涯 パート2

1923年よりダイムラーの技術部門の部長を務めコンプレッサーエンジンの改良を手がけていたがベンツ社との合併後ポルシェは、自分の想像する車を製造したいがダイムラーベンツ社側はそれに賛成ではなく意見の不一致からまたもやポルシェは職を失う事になる。
1931年には自分の有限会社Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbHとして登録(オフィスは1年前ごろには開かれていた)するのだが、実際仕事の依頼も少なく、社員に彼らの家賃しか払えなかった事もあった。ちなみにこの会社の権利は7割がフェルディナンドポルシェ残りをレースドライバーのアドロフ、ローゼンベルがーと義理の息子ピェヒと分けた。


ヒットラーが首相(1933年1月30日)になって約2週間後の1933年2月に、ヒットラーはベルリンモーターショーで演説を行い、車のすばらしさ、今後の必要性を語った。その演説は全国放送され、Stuttgartでそれを聴いたポルシェはその日のうちにヒットラーに電報を打った。内容は演説に対しての祝辞に加え、ポルシェ自体も今後の車の重要性に関して共感を得ているなどというポルシェの車に対する今後のあり方(レースカー開発)などが書かれた物であった。

1933年3月ヒットラーはポルシェに対しレースカー開発の援助をする事をじきじきに伝えた。Autounionとベンツは、国よりレース開発費用を受ける事になる。ポルシェが開発したレースカー Autounion の初の試みでエンジンが後部にあるレースカーを作った。このRRスポーツカーが彼の理想とする車の姿なのである。

ステアリングを握ったのはポール、ピーチである。彼はポルシェに対しRRに対し強く反対をしていたが、ニュルブルクリングで好タイムを出した彼にポルシェは「どうだ、RRでいけるんだよ!」といったそうだ。

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