1934年Hans Stuckのドライブで Autounionはドイツグランプリで強豪メルセデスベンツを破り初優勝を果たした。
ポルシェは低価格でしかも質の良い車のアイディアをまとめヒットラーに送った。
1934年4月上旬、ベルリンのホテルKeiserhofにて会談し、ポルシェの計画を発表。私に開発依頼をするようにとお願いした。そこで、ヒットラーは以下の事をポルシェに請求した。
最高速度100km/h
燃費 7Lガソリンで100kmを走れる事
値段 990マルク以内
乗員 4人
プロトタイプを1年後に納車
という内容である。またこの時期にヒットラーの指令でアウトバーンの建設にかかる。
それから10ヶ月間ポルシェの車庫ではプロトタイプの製作が始まったがトップシークレットの計画であった。妥協を許さないポルシェに対し、裏ではヒットラーに対し、ポルシェに車を作らせても彼が作る車には未来がないなどという事なども伝える者もいたらしい。そんなこともありながら、1936年7月2台のプロトタイプをヒットラーの別荘へ納車した。
ヒットラーはとても気に入ったそうだ。
また同時進行で、30年代のスーパーレースドライバー、ベルントローゼンマイヤーがステアリングを握り、1937年、ポルシェレース部門では素晴らしい結果を収める15レース1位 、15レース2位という好成績でを収め、アメリカでのレースにも参戦し表彰台にも上った。
38年1月28日ポルシェはアウトバーンフランクフルト~ダルムシュタット間で最高速カーのテスト走行を行った。ドライバーは、ベルントローゼンマイヤーである。予定最高速は440km/hであるが、この実験は事故で失敗と終わり、ドライバーは死亡した。
さて話は戻り、ヒットラーは納車されたプロトタイプの量産する事を決め、その指揮をポルシェがとることになった。そのために、ポルシェは2度も大西洋をわたり、手本となるアメリカ合衆国の世界最大の工場を持つフォードを訪れる。そこには約75000人の人々が働いており、1日に約2000台生産されていた。