Wolfsburgにドイツ最大の工場建設が開始された。ここで1年間に500,000台の車を製作される予定である。1938年有限会社Volks Wagenという名で会社登録をしており、社長にはフェルディナンドポルシェが就任している。はじめてのフォルクスワーゲンKraft durch Freude略して“KDF”(戦後にビートルというあだ名が付く)が大衆の前に姿たを現し、大盛況だった。ポルシェは手を休めることなくフォルクスワーゲンのテスト走行を繰り返した。妥協を許さず60人のテストドライバーを使い半年手の間に合計2,500,000kmのテストが行われた。Wolfsburgの工場を建設中だが、建築工事をしていたのはイタリア人などの外国人労働者であった。なぜドイツ人が働かなかったかというと戦争に備えるためであった。同年の9月ポルシェとヒットラーはWolfsburgの工場を戦争が起こった際、飛行機製造工場として利用する事で同意した。
そして1939年、第2次世界大戦が開始し、Wolfsburgで飛行機部品などが製造された。残念ながらこの時点でKDFは1台も製造される事がなかった。戦争が始まりポルシェが戦前から開発を進めていたゲレンデワーゲン、戦車、水上車など色々な戦争に必要な車両を造ることになる。この辺の話は車(乗用車)開発とはあまり関係のないことと思うので省く事にする。
1944年Wolfsburgの工場は3分の2破壊された。
ポルシェはオーストリアへ住居を移し、戦争が終わるとフランス政府に逮捕され2年間監獄生活を過ごす。
戦後WolfsburgではKDF(ビートル)が製造され始めた5000台や100000台などの製造記念式典ではポルシェは招待されることはなかった。そして1951年この世を去っていった。
フェルディナンドポルシェは戦争加担者として扱われるであろうし、これを読んだ皆さんもうなずける箇所がいくつもあるであろう。ただ、VWは彼にとってエンジュニアとして、同時に経営者として夢のPORSCHEという自分の城であり、それを達成することが彼の目標であったのではないだろうか。彼は自分の想像している通りの車を作りたいという一心で、車会社を何度か負われている、そしてStuttgartに開いた事務所の経営が不安定だった時に最高の国というスポンサーをつかむ事ができ、PORSCHE夢工場(Wolfsburg)の建設までたどりつけたのである。100%ヒットラーの支配下になかったという証に多くの当時の写真でヒットラーと対面する時に彼はナチスの制服などを着ている事がほとんどなかったことである。事実はどうであれ、20世紀の工業社会においてフェルディナンドポルシェはもっとも重要人物であったことには代わりがない。そして、われられが追いかける車“ポルシェ”は彼なしでは生まれることもなかったであろう。